週 句 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
聖書 コリントの信徒への手紙二4章11節
説 教 「わたしたちの名前」 高橋周也牧師
聖書 マタイによる福音書16章18~28節
「あなたの名付け親は誰?」
皆さんと共に礼拝をするのも、残すところわずか1ヶ月となりました。当たり前に繰り返してきた営みの中断によって、物事の本質が問われることは、必ず現状よりもっとよくなる事が約束された希望的な事柄です。ましてや、私たちの主は、私たちに最善を備えていることを約束してくださっています。
意外に思われるかもしれませんが、「教会」という言葉が福音書に登場するのは、マタイによる福音書16章と18章に一度ずつ、たったの2回です。聖書自身が語るように、教会は、十字架と復活後に聖霊を受けた弟子たちによって建てられたのですから、実は当然と言えば当然です。教会(エクレシア)という共同体は、神様がわが子と呼ぶ者たち、イエス様がご自分の友と呼んだ者たちによって形づくられていきます。いかにもその構成員らしく、ペトロは、イエス様を諫(いさ)めました(=強く非難する、ぶつかる=これをするのは対等な関係性の間柄)。イエス様は、シモンの言った言葉(メシア)に対して、「わたしも言う」といって、シモンをペトロ(=岩)と名付けます。教会共同体は、そのように相互的で、上下関係や師弟関係よりも、むしろヨコのつながりに近いものであったことが想像されます。
この教会もフラットであろうとし続けてきました(つもりです)。一方で、実は、イエス様が名付けてくださる名を生きるよりも、世がその権威に従って付けてくれる名前を生きる方が、ずっと簡単そうに見えることもしばしばです。しかし、「自分の命を失ったら、何の得があろうか」。「自分を捨てて、十字架を背負う」とは、犠牲を強いられたり誰かの枠組みに自分を合わせたりして生きることではありません。あらゆる状況の中で、愛と自由により、いのちを大事に生きることです。