08 │2025年2月16日

岡山バプテスト教会


週 句 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難(かんなん)は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
聖書   コリントの信徒への手紙二4章16~18

説 教 「信じているとおりに」 恵キリスト教会 伊藤聰牧師
聖書   マタイ 9章27-31節

「信じているとおりに」
 5年前に恵教会の牧師として着任し、東ブロックの交わりに加えていただきました。私にとりましては、ようやく巡ってきた岡山教会での交換講壇です。どうぞよろしくお願いいたします。また、今回は、午後の「みなカフェ」にもお招きをいただき、感謝申し上げます。皆様が大切にされてきた岡山教会への思いに触れ、お一人おひとりの信仰から力と励みをいただく機会となりますように。
 今日の聖書箇所は、マタイ福音書9章から、目の見えない二人が癒される場面です。この二人は、障害者として苦楽を共にし、助け合ってきた仲間だったのでしょう。イエスから「わたしにできると信じるのか」と問われた二人の返答は、「はい、主よ」だけでした。イエスの福音についてほとんど何も知らなかったために、立派な信仰告白をすることはできませんでした。しかし、二人がイエスという希望を共にすることで、「見えないものに目を注ぐ」信仰を持っていました。知識としてイエスをよく知らなくても、すでに苦楽を共にし、助け合っていたからです。そんな二人を見て、イエスは「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。私たちの目は、手に入れたい何かにいつも釘付けになっています。しかし、その何かを手に入れても、自分の中に信じる言葉がなければ、そして、共に信じる仲間がいなければ、幸せにはなれないのです。
 東ブロックでは、交換講壇を「信教の自由を守る日」に合わせて行っています。「信教の自由」について考えるとき、「何を信じるか」だけでなく、「誰と共に信じるか」が大切であると考えさせられます。人は心の内に何を信じようとも、黙っていれば何も起こりません。しかし、人と人とが結びつき、労苦と喜びを共にするとき、共に信じていることが目に見える形で証しされ、世に働きかけていくのではないでしょうか。  伊藤聰