47 │2024年12月1日

岡山バプテスト教会


週 句 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
聖書   イザヤ書9章1節、5節

説 教 「聖霊による愚かさ」 高橋周也牧師
聖書   マタイ1章18~21

「『いない』と言っているのは誰か」
 11月後半の礼拝説教は9月分の信徒説教の振替と連盟常務理事のお招きがあり、それぞれの奉仕者に聖書箇所を選んでいただきましたが、その間も『聖書教育』のプログラムに従って、エレミヤ書を読み進めました。今日からはアドヴェントとなり、それに合わせて、しばらく福音書を読み進めることになります。
 さて、先月までに扱われたのはエレミヤ書の前半部でしたが、その言葉を読んで複雑な思いになりました。「主はこう言われる・・・ここは廃墟で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて・・・」(エレミヤ書33章より)
 しかし、そこに本当は人が(そして、おそらく獣も)いたことを、歴史は知っています。捕囚に連れて行かれたのは全員ではありません。役に立たないと思われた者たちは、焼け跡に放置されました。そして、数十年後に「民」が帰還した時には、残されていた人たちとその期間に新たに住み着いた者たち、そして、帰って来た者たちとの間には軋轢が生まれ、「再建」の困難さにもつながっていったのです。
もちろん、エレミヤは南ユダの預言者であり、そこから捕囚に連行された者たちに向かって語られた言葉なのですから、敢えてつつく必要はないのでしょう。しかし、現代にも、「いない」ことにされている人たちがたくさんいます。神の民も一緒になって「いない」と言っていてはいけないのです。そこにも、名前をもった大切な一人ひとりの命があります。
 2000年前、イエス様は、「いない」ことにされそうな母のもとにお生まれになりました。